2011年6月30日木曜日

20110611 満田正さんの「福島原子炉・二ツ塚処分場包囲網日誌」6/11

From満田正 
日付2011年6月11日22:09
件名福島原子炉・二塚処分場包囲網(5/11)






K殿
23日は気楽に参加させて頂きます。
従って、講演などという大袈裟なことは必要ないです。
折角ですので、懇親会にも参加させて頂きます。
ごみ探偵団に私の日誌が掲載されています。
http://gomitanteidan.blogspot.com:80/2011/06/20110609-330-31-429-30-527-30.html
私は、現場主義(橋頭堡の構築)ですので、ターゲットを求めて彷徨います。
とにかく、幼少の頃から物理学でしたが、それが縁で日大に招請されて、日大全共闘にほだされました。また、それを境に物理学を止めてエンジニアリング、ソフトウェアの世界に飛び込み、またそれが縁で、小菅村に移住、現在は青梅市に住んでいます。
西欧ではヘラクレイトスの万物流転、東洋ではお釈迦様の輪廻、大昔から殆んど誰もが同じことを繰り返しを行っているもので、私とて変わったことをしているわけではありません。それでも何故か、私は孤立を感じることが多い。
1960・6・15は安保改訂国会審議最後の日ですが学生達は焦って南通用門から国会突入、その勢いでチャペルセンターまで移動までは良かったのですが、機動隊の反撃に遭って、蜂の巣を散らすようだった。私はポツリと国会塀際をぐるっと回ってチャペルセンターに近づくと、数人の学生が装甲車を倒そうとしているので私も手伝いました。10万人もの人々による包囲網作戦、ただチャペルセンター前に居たのは数人、流石に装甲車はびくともしない。ぱらぱらと来る学生を集めて、10数人、ようやく装甲車が揺れ始めて、遂にはどんでん返し。誰かが毀れた油を見て火をつけた。装甲車は見る見るうちに火を吹いた。火を見ると人々は興奮、結局翌日の新聞では14台の装甲車が全焼したと報道された。結局その時もまたまた機動隊に追われてまた私は独り、運良く飯田橋まで逃げ延びた。
10万人が決起したという日大全共闘、私はその事態を理解できずに、相変らずの物理学の学徒だった。あの有名な日大両国行動満員溢れる人の多く、4万名を集めての大衆団交、日大理事会と日大全共闘の学生の対決は日大全共闘の完全勝利、ところが政府はその大衆団交の結果を無視せよと古田会頭に迫った。最近の政治的ゴタゴタではないが、日大の中に様々政治潮流が生まれた。日大全共闘の内部にも、教職員の内部に、理事会内部にも数え切れない動きがあって、流石に私も自らを鼓舞して、当時の日大教職員3000人の全学組織を割って日大教員共闘を結成した。その時にも最初言い出しっぺは独りだった、教職員の中にも同調者が出て、数十人となった。ただ、私も含め総ては日大を去る運命にあった。
流石に家族3人路頭に迷う訳に行かず、最初は家庭教師などアルバイトをしていたが、最終的には新聞広告でエンジニアリング会社に就職した。私の環境問題への取り組みの契機である。流石に大学と違って戸惑うことも良い。ただ、反公害運動の真っ最中、都市化に環境改善の問題は私を刺激して、漏れ棚式排煙脱硫装置の開発を熱心に行い、それなりの成果を上げて、当時は2000万円という破格の政府助成金を確保したが、余りに異例の出来事、親会社を高砂熱学に持つ身、内部騒動が起きて、そのプロジェクトもおじゃん、私も会社を辞めた。
そこで、私が卒業した大学の仲間や全共闘の仲間と組んで、当時流行のソフトウェア企業を立ち上げた。私は元々アンチコンピューターで物理学といえども、その内容はコンピューターを使わない方式を選んだ。だから、エンジニアリング会社での経験を活かして環境問題はどうかと誘いに乗って、最初は伊勢湾、そして東京湾、和歌の浦湾、地震被害、上下下水道予測、環境騒音さまざまな国家プロジェクトに参加させて貰った。
環境問題の醍醐味は、アメリカのEPAの論文、実は廃棄物全国データベースの構築で基本設計のために読んだ論文で「廃棄物処理には第二次大戦ほどの経費がかかる」というものだった。静脈産業と動脈産業、循環社会、クローズドシステム等の私なりの視点はここから出発する。廃棄物問題は戦争問題である。その覚悟が無くて、廃棄物問題への関わりは無意味であるとまで話すようになった。
これは、私が日大闘争で、日大教員共闘結成をし、日大全共闘支援に回った時、逆に当時の公害闘争の元祖でもある、宇井淳、水戸巌等と対立した観点の違いである。大学が全共闘と理事会の二極対立であり、その緩和剤となる一切の動きは犯罪に近い。以降、原子力問題、水銀中毒などへの動きに参加しなかった私の観点である。
ところが、食べるために会社を起し、環境問題をわんさと扱い、環境問題にドップリ浸かる立場にいると、環境問題の難しさが身に沁みる。大学闘争と環境問題を二律背反風に考えた私も、日大全共闘の仲間が、熊本水俣、柏原発、三里塚で闘っている姿を知って、とにかく、橋頭堡は何処にあるのかと改めて問うようになった。大学を追われ、会社を負われ、東京も追われて辿り着いた小菅村、知ったのは、人と自然の力強さ、私を充分満足するものだった。私の小菅村で行ったことは橋の写真撮影である。山間部では橋はコミュニケーションの欠かせない道具、木の橋から、コンクリートの橋、実に多彩に小菅村のコミュニティを支え、自然と人間の調和を示してくれている。それにもまして、小菅村の山々を支える木々の豊富さである。そこには3000以上もの植生が存在するとは奥多摩産荘園のオーナーの台詞である。
この自然の力強さ、昔は、炭焼、製材、キノコ、山菜、狩猟の宝庫である。それが観光業、その1は小河内ダムの建設にもよるのだが、現金が飛び交う貨幣麻薬の虜になって、道路建設、針葉樹への切り替え、こんにゃくや麻などの開墾、観光施設の乱発など、他の地域に劣らぬ開発となり、山が荒れ、代わりに砂防ダムが必要となり、相乗効果で山崩れが起こり、豊かな小管川が死の川となり、昔の自給自足、自立の村から、助成金便りの村、限界集落へのまっしぐらに突き進んでいる。これは隣の丹波山村にとっても同じでより加速的である。
炭素化社会とは小菅村である。その典型的なモデルが限界集落である。何ゆえに、炭素化社会と限界集落が結びついてこないかが不思議である。
それでもわたくしは青梅を選んだ。ここも多摩川源流域、まだ、限界集落とは程遠い、人口14万人都市である。よく見ると実は小菅村対応が100ヶ所はあるなと思う市である。青梅市がどのようなベクトルを選ぶかは予断を許さないが、少なくともそれを取り巻く環境はもの凄い。まずは、長渕丘陵の南側に二ツ塚処分場を頂くことだ。ごみ処分場が山の上にあることに私は愕然とした。その始まりを知らない私も恥ずかしい限りだが、それを反対すら出来ない青梅市民はもっと悲劇である。その建設に一役買った武蔵野市の土屋市長は反対する市町村には処分場を使わせないと恫喝したようだ。
その後の循環組合は更に応募で反対派の切り崩しに家庭訪問を繰り返す。反対派が裁判をする以上は情報公開はしないという。福島原子炉事故で東電が行った非情報公開は未曾有の惨事を招いた。今後、廃棄物処分場管理組合が情報公開を継続できるとは思わないが、私の青梅での1つの仕事の始まりは、この多摩広域資源循環組合に対する情報公開条例制定のための署名運動である。
そんな矢先に起きた東北大震災による原子炉破壊事故、水素爆発、メルトダウン、メルトスルーと最悪事態を惹起しながら、事態を益々悪化させている。まずは未曾有というか、私には予想もつかない。当初は情報公開が最大の武器にも思えたが、相次ぐ被害の状況は頭を混乱させるばかりである。とにかく原子炉安定の策は無いものかと、考えをめぐらす。しかも重要なことは策があったとしても、その作業は作業者の命、より大きな二次被害さえ齎す。それをやり切る力は私にも無い。ノウアイデアである。
とにかく、ここは政府・東電・日立・東芝に頑張ってもらうしかない。我々は見守るだけである。見守るにしても近くにいないとどうにもならない。たとえ、避難地域が広がろうとも、ぎりぎり監視するのである。見守っている姿を政府・東電・日立・東芝に見せるのである。実際には作業は限られた下請け作業者である。彼らにエールを送るのである。
まさに偶然ではあるが、福島原子炉と日の出町二ツ塚処分場が重なった。ごみ戦争が拡大したのである。署名運動で立ち上がったメーリングリスト「たまかんねっと」ドッキングツールとなった。これが始まりである。
二ツ塚処分場には今日も現地観察会があって、これは二ツ塚処分場包囲のベクトルを持つのだろうか。今日は「6.11 脱原発100万人アクショ ン・東京」が芝公園で開かれる。これは福島原子炉包囲網のベクトルになるだろうか。戦争は敵・味方の識別によって決まる。境界には有象無象、勝てば官軍、負ければ賊軍でしかない。人々の抵抗は見事に復活するのだが、見事に鎮圧もされる。
福島原子炉は予断を許さない。たとえ、沈静化に成功したとしても、原子炉廃止が地球規模で成功する保証は無い。総て、福島原子炉の処理のされ方を世界中が見守っている。その先頭に福島の人々、それを取り巻くように日本中の人々、更にその周囲には世界中の人々が居る。
今日の「6.11 脱原発100万人アクショ ン・東京」には出ないが、明日の「いわきアクションママの講演会」には出ようと思う。距離はダントツいわき市は自宅から遠いが、ダントツ福島原子炉に近い。福島原子炉を孤立化させてはならない。

満田

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